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一問一問に全力投球できていますか?

巷ではセシウムやなでしこや節電など、慌ただしくいろいろなことが起こっていますが、受験生にとっては夏期講習の時期ですよね。私も今年度は夏期講習の開始が早く、7月初旬から浪人クラスが始まっていましたが、ようやく一通り、普段担当している生徒たちを一度教えられるくらいのターンに入りました。

先生仲間とはよく話しているのですが、ここ2、3年は、クラスレベルに関係なく、一問一問に全力投球できる生徒が減っているような印象があります。「全力投球」とは、例えば英語の文法問題でいえば、

1 この問題のテーマは何(と何、複数ある場合もあり)で、
2 どの単語は必ず知らなければならないくらい重要で、
3 この問題を正解するには、最小限どの語彙やどの文法、語法を知らなければならなくて、
4 この問題を正解するには知らなくても良いが、他の関連問題を解くために、この問題を通して知っておいた方が良いこと(派生事項)は何か

これらを、予習では辞書や以前のノート、配られたプリント、辞書引きで確認し、予習で足りなかったことを、復習段階で、それこそ「端から端まで」もう一度辞書で調べ直したり、覚えにくい単語を書き出して壁に貼るなどの作業をすることです。

4,5年ほど前までは、「そうすべし」と口やプリントで説明すれば、上位クラスであれば3~4割の生徒はそのくらいトコトン調べていたような印象があったのですが、ここ2,3年は、上位クラスでも、その「トコトン調べる」という作業がそもそもできる生徒が1割もいない印象です。

例えば、最近の授業でも、誤文訂正問題で、

私「何番が間違いだと思う?」
生徒「Bがおかしいです。」
私「なぜBがおかしいか、自分なりに説明してみて。」
生徒「いや、何か違和感があるんで。」

・・・これで、一応国公立レベルをめざす、偏差値55くらいの生徒ではあります。しかし、私もその生徒もアメリカ人でもイギリス人でも、日常生活で英語づけになっているわけでもありません。「違和感」という言葉である選択肢を「まちがい」として選べるというその生徒の甘さに触れ、怒りやあきれを通り越して、力が抜けてしまいました。

私「いや君は何人なの。アメリカ人じゃないでしょ?なのに英語でおかしいところを探すのに『違和感』って何なのよ。」
生徒「・・・(一応まじめに考えているようではある)」

この春から、かなり言葉を尽くして、上記のように一問一問に全力投球することの大切さを訴えてきたつもりだっただけに、こういう展開はきついですね。単に生徒が悪いというわけではなく、生徒がわからないところまで私が降りていっていない反省も含めて。

ただ、どの講師でも、「自分がどのようにしてその科目を得意にしたか」を分母にして、その科目の学習指導をするわけで、私もそうなわけです。私は、高校の途中まで英語が苦手だった者として、「一問一問、予習以上に復習に力を入れる」という勉強法で英語を得意にしてきました。あとは語彙をいかに増やすかというところが課題ではありましたが。一回習ったことに関しては、どういう変化球が飛んできても、必ずヒットを打ち返せる自信が出てくるまで、辞書やノート、テキストは見直しました。その結果として、偏差値がいくつであろうと、一日で辞書を引く回数は平均して50回は下らなかったと思います。今はさすがに1日50回は辞書は引きませんが、家の至る所に辞書が転がっており(笑)、気になった単語はすぐに調べてメモできるような家になっています。そんな私も、講師としてより力をつけるべく、次の目標を立て、そこへ向けて試行錯誤をしている最中でもあります。

皆さんの中にも、何年生であるか、浪人生であるかに関係なく、今でもまだまだ苦手な科目がある人が多いと思います。文系か理系かを問わず、そういう苦手科目に関しては、ある程度の手応えを感じ取ることができるまでは、徹底的に調べ抜いて、考え抜いて、「自分の全力はここまでだ」と感じる作業を大切にしてほしいと思います。特に数学で、ただパターンや公式に当てはめるのが「解く」という作業だと思っている生徒は、模試ごとに結果が乱高下するはずです。私にもそういう時期があったからよくわかります(笑)。数学の問題とは、私ごときが一般化するのは僭越ですが、

・最終的な未知の何かがあって、
・あらかじめ既知の何かを与えられ(前提)
・その既知の何かを加工し(公式の当てはめや、数式による処理)、
・論理的に飛躍がなく、その最終的な未知の何かが何かを推定する(最終的な答えを出す)

こういうプロセスだと考えています。この点では理科の計算問題も似ていると思います。科目によって、どういう知識を使うかや、どういう処理のしかたをするかが異なるだけです。

そして、もっと言えば、このプロセスは、英語において一問ごとに全力投球する姿勢と何ら変わりがないと思っています。「何がわからなければ、この問題は解けないか」という部分が、必要条件の抽出と同じなのですから。

そういう姿勢で各科目の問題を見ることは、言い方を変えれば、問題を「ドライ」に見るということにもなります。国語の問題で文章に感情的にシンクロナイズしたりすることなしに、純粋に「解かなければならない問題」としてその問題を見たときに、「何を知らなければ解けないか」という意識でその問題を解く。そういう姿勢は、いわゆる受験勉強を単なるテクニックとして見なす「受験勉強批判」にもつなげられそうですが、大学を出た私から見れば、大学での「学問」の営みとは、まさに冷静に、研究対象を「問題」として認識し、「その解とは何か」を己で設定し、その解へ至るプロセスを、論理的な飛躍なしに説明することに他ならないわけですから、受験勉強を上のような意識で解くことは、受験勉強を「単なるテクニックとして見なす」などと、卑下するような姿勢では決してないわけです。

もちろん、一問一問を全力投球で解くという作業には時間がかかります。でも、だからこその夏期講習なわけです。集中して数日間、同じ科目をこってり学び続けることで、週1,2回では忘れていたことも忘れずに問題を解き続けることができるわけですから、これは大きなチャンスでもあるわけです。

もうすぐ8月になります。8月いっぱいを夏休みと考えても、まだ一月あるわけです。ぜひ、一人でも多くの受験生が、一問一問を大切に、かつ冷静に、全力投球して解いてほしいなと思います。

http://shirakawajuku.com/
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言葉の重みそのものを破壊している菅直人という総理大臣

こちらのブログでは、個々の政治現象そのものについての論評は控えようと思っていたのですよね。なぜなら、各人の「政治的思想」あるいは「政治思想的背景」はかなり異なっているせいで、私が個人としてやっているブログを見てもらえればわかりますが、いわゆる不毛な議論が増えるからです。アプリオリ(先験的)に、こっちの考え方の方が正しい!と思っている人間が複数いて、彼らの持っている「前提」が全然違っているときは、議論がかみ合わないのです。

ただ、さすがに昨今の状況は、高校生や浪人生でも「オイオイ」とつっこめるレベルにまで落ちてきたように感じられるので、こちらに書くことにします。

今の日本の総理大臣は菅直人という人間ですが、彼は今年の6月2日にこういう発言をしました。
「一定のメドがついた段階で」
「若い世代の皆さんに」
「いろいろな責任を引き継いでいただきたい」

この発言を、いわゆる「常識的」な意味で解釈すると、
「一定のメドがついた段階で、私は総理大臣を辞職する」

という意味になると思います。ところが、当の菅直人にとっては、そうではないとのこと。国会でも、
「私は辞任をするという発言はしたことがない」

と明言しています。

ところが、この発言をした張本人が、6月27日にこういう発言を、総理記者会見として国民の前で行っています。
「次に6月2日の民主党の代議士会において、私が震災と原子力事故対応に一定のメドがたった段階で若い人に責任を引き継ぎたい、それまで責任を果たしたいと申し上げたところです。私としては第2次補正予算の成立、そして再生可能エネルギー促進法の成立、そして公債特例法の成立、これが一つのメドになると、このように考えております」

おかしいですよね。6/2に「一定のメドがたった段階で若い人に責任を引き継ぎたい」という発言が、「辞職することを意味するものではない(なぜなら、『辞職するという発言をしたことがない』と国会で明言したのですから)」とするならば、その「メド」という言葉に「条件づけ」をすることそのものに、何の意味もないということになるはずです。

ところが、この菅直人という人間は、張りきってこの「メド」という言葉に「条件づけ」をしています。

言い換えればこういうことです。
「一定のメドがたとうがたつまいが、私は辞職するなんてことは言ったことはない。しかし、一定のメドとはこういうことだ。」

菅直人の言う「一定のメド」が達成されたからと言って、菅直人が辞職するわけでもないということです。

にもかかわらず、今日の国会から、その「一定のメド」の条件の一つである、再生可能エネルギー促進法の審議が始まりました。ある民主党の議員も、「この法案を成立させれば一定のメドの条件を達成することの一つになるので」などと張り切ってしゃべっていましたが、ここまでの菅直人の発言をまとめても、

・「一定のメド」を達成しても、菅直人に何の義務も生じない。

ということが確認できるだけです。

だとしたら、今国会で張り切って議論されている「再生可能エネルギー促進法の審議」とは一体何なのか、何のためなのか、という話になるわけです。

菅直人の辞職と何ら関係ないならば、この法律自体を今年審議する必要すらありません。ただでさえ化石燃料を使った火力発電による発電が原子力発電の後を継ぐことになり、その分だけでも相当の電気料金の値上げが予想されるのに、それ以上に再生可能エネルギーを、国家権力の名の下に、強制的に一定額で電力会社に買い上げさせることそのものの是非をまず徹底的に議論すべきです。そして、その前提として、原子力発電は本当に日本にとって「害悪」なのか、という議論こそが必要です。なぜなら、原子力発電が日本にとって害悪でないのならば、原子力で発電することで、化石燃料の使用を抑制でき、その結果として、化石燃料を後世までより長持ちさせることができるのですから。

しかしながら、国会でもジャーナリズムの場でも、そういう「そもそも論」は全く聞こえてきません。これは、「今原発を擁護するような発言をすると叩かれる雰囲気だ」という「空気を読む作業」を、大の大人たちが無意識にやっているからでしょうね。そんな大人たちが、受験生たちに

「小論文で本音を書け!」

などと偉そうに言っても、そりゃなかなか書かないでしょう。本人がやってることと言ってることが違うのですから。これを「言行不一致」と言います。

高校生や受験生が、政治家たちやいわゆる「テレビに出てくるコメンテーター」たちが何のためにやっているのかわからない議論をしている様子を見ると、言葉そのものに不信感を持つようになると思うのですよね。なぜなら、大の大人たちが、何のためになるのかわからない議論を一生懸命やっているのですから。

ただ、その「何のためになるのかわからない議論」の起点になっているのは、現在の日本の内閣総理大臣である、菅直人という人間であるということは、覚えておくべきだと思います。東日本大震災という未曾有の災害が起こり、今でも避難所から出られない人が多数いるにもかかわらず、政策「以前」である「言葉」のレベルで多くの人間から不信感を持たれている菅直人という総理大臣は、内閣(行政)と国会を空回り、空騒ぎさせているという意味で、歴代日本総理の中で、最も愚かな総理だった、と後世から評価されるのかも知れません。

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・白河夜船

Author:・白河夜船
白河塾の塾長ブログをFC2ブログに引っ越しさせました。wordpressがアップグレードできず、書式をいろいろ変えたりすることが大変だったので。今後はTOEICなどにも役立つネタを書ければいいなあと思っています。

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